『欲望の曖昧な対象』

 

 

 

 

ルイス・ブニュエルの『欲望の曖昧な対象』を観ていた。

僕が観るルイス・ブニュエルは『昼顔』につづいて二作目で此れ自体、ルイス・ブニュエルの遺作となった。

たつた二作しか観ていないが『昼顔』にも続いてラストの幕のとじ方に疑問が残る。僕はわからない。なぜヒロインの女性はラストの場面、列車のトイレで主人公に殺害されなかったのか? あの映画の終わり方は女性を殺害することによってひとつの典型を全うし、それを除きあの物語の終末は他になかったと思うが『昼顔』同様ここでも、ルイス・ブニュエルはこの典型を回避し、かくして映画は寓話化を免れ、意味性を失い、(僕にとってであるが)意味のない漠然とした、台所の入り口に掛かる簾のように曖昧化した。それは『昼顔』の際と同様の虚弱な態度で、ルイス・ブニュエルは典型を恐れ、その恐れ故にヒロインを殺せなかったように見えた。実際カメラはトイレに差し掛かる瞬間、この典型を予感した。ブニュエルにこの典型の像は見えなかったろうか? ーーとてもそうは思えないのである。

終わり方はさておき美的において、やはり僕は下品な監督に思う。パゾリーニと比較し、パゾリーニほど画面を緊張させられない監督にも思う。画面における美に限定しとしても、パゾリーニの複雑多様な緊張の美にはとても及ばない。

 

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