理知的な満足

 

アリストテレスの『詩学』や西脇の詩論を読むと彼らは「効果」をたいせつにしている。ポーになるとはっきりと「効果」と書かれますが、ーーこの「効果」というものは、「間接的な満足」のことです。

是枝監督の『三つ目の殺人』を見直していましたが、凄まじく複雑な構成をしていて、僕は非常によろこばしくこころが打ち震える。是枝監督は重要な部分は極力語られないよう排除してある。主題的なことばは極力背後に回され、ほんの時折鋭いひとことが表へ出てくるのみで、あとは長々と語られはしない。こういうものにこそ僕は「理知的な満足」をおぼえよろこばしく心が震える。

「直接的になにかが語られるもの」を、僕は詩とも思わないし、芸術とも思わない。萩原朔太郎は自分の詩の根本を「存在のさみしさを描くこと」だと明言していますが、彼の詩のなかに、「ああ、私は自分の存在がさみしい」などとは、ほとんどひとことも出てこない。それよりも、

 

光る地面に竹が生え、

青竹が生え、

地下には竹の根が生え、

根だしだいにほそらみ、

根の先より繊毛が生え、

かすかにけぶる繊毛が生え、

かすかにふるえ。

といふやうに「竹が生え」としか言わない。

書かれているのは「存在のさみしさ」であるがこの「存在のさみしさ」を描くために直接それを言わずに間接的に「竹が生え」と言っている。こんなふうに、「直接」ではなく、「間接」によって表現することが詩であり芸術である。

しかしこのとき、ひとの脳髄にこの作品を把握しようと能動する働きが起こる。「隠されていたもの」をキャッチしようとごく自然に思索が流動する。その結果、作品内になにかが隠されていた場合、その「隠されたもの」を見つけ出そうとして脳が暗躍してその終わりに西脇が言うところの「理知的な満足」が生じる。ーー僕は、この一連の現象にこそ「美」を感ずる。

パンクを芸術とも詩とも思わないのは、こうした「理知的な満足」がひとの脳髄に生じないためで、彼らは作品の余韻を操作して詩的満足を作ろうとするよりも、それらの工程を無視して、はじめから「ああ、私の存在はさみしい」とすべてを打ち明けてしまう。こういうものは、粗雑な芸術であって野蛮人のつまらないマナー違反と思う(このマナー違反にこそ歓びを感じて「これぞ芸術だ」と思うひとびともいる。しかしそれは僕の範疇外の出来事と思って僕は関わらない)。

隠されているもの、余韻を操作してあるもの、ひとの脳髄に「理知的な満足」を呼び起こすもの。そういったものをこそ探し、僕は模索し続けていて、それこそが詩であり、芸術だからであるが、是枝監督の映画は澄み切った芸術であります。