『園子温という生きもの』

 

『園子温という生きもの』というドキュメンタリー映画を観ていました。このドキュメンタリー作品自体に興味があったというよりも、園子温に興味があって観たものです。

途中、園子温が絵を描くシーンがあって、園子温の描いた絵を初めて観たのですが、僕は彼の絵を名画とは思いませんでした。雰囲気だけで描かれたいい加減な抽象画で、僕は絵画の専門家でも絵描きでもありませんが、あの絵が素人の描いた素朴な粗悪品ということはわかります。「芸術は爆発である」という岡本太郎の発言を真に受けた、ただの「思いつきの発露」です。あの「適当ではあるが過激であるパフォーマンス」が、僕は園子温という芸術家の本質と思います。芸術を自分なりに突き詰めた、確固たる独創は持っていないひとに思います。

芸術とは、――僕が思うに、確たる解釈から生まれるものです。それは芸術の歴史を一点の針で突き刺すような眼差しであり、この鋭い眼差しを通してこそひとは独創家になる。萩原朔太郎も、西脇順三郎も、ボードレールも、ポーも、みな「詩」というもののどこか極小のひと粒をピンセットで摘むように解釈し、そこから詩を生成しました。ボードレール自身も発言していますが、重要なのはなによりもまず「解釈」です。

園子温は「自己なりに芸術を突き詰めて解釈する」という、この果てしのない道程を生きていないように見えます。この道程を思索しながら歩むより、錯乱し精神を爆発させることで思索自体から狂おしく逃れようとしているように見えます。――その気持ちは僕にさえもよくわかりますが、この行為は逃避的錯乱に過ぎず、自己の芸術もこの爆発を通しては磨かれはしない。結局は、ひとは苦しみながら考え抜くしかありません。

――と、園子温の批判ばかりしていますが、その過激な生き方と、大胆に自分らしく生き、大胆に裸で生きている精神のその雄大さには僕は心服させられる。彼が好む本としてこの映画のなかで挙げていたTropic Of Cancerを書いたヘンリー・ミラーと同じく、路上生活者のようなあるがままさを携え、生きることそのものを探求している真面目なひとです。僕はこのひとを偉大な芸術家とは思いませんが、偉大なひとりの人間であるのは確かです。このひとに心惹かれるひとが多いのも、よくわかります。

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