ハロルド・ピンター『誰もいない国』

 

新国立劇場で公演している『誰もいない国』を観に行っていました。原作はイギリスの劇作家ハロルド・ピンターで、主演は柄本明です。

不条理演劇として有名なハロルド・ピンターですが、実際に劇を観るのはこれが初めてです。凄まじく難解というほど難解ではありませんが、やはり難解ではあったと思います。

劇が終わるとみんな一斉に立ち上がって、劇場から出ていった。僕もその人波に合わせて、寒空へ出ていった。

するとみんなが劇場から出ていくなか彼らの声が聞こえて、――それぞれの感想が風に乗って聞こえてくる。それを聞くこともなく聞いていると、ひとびとの感想が違うようだった。みんな違うことを思いながら劇を観たようで、僕の感想もこの風の声とは違った。

難解であるというよりハロルド・ピンターは説明を敢えて省いているようで、そのせいで感想が割れるようである。一緒に観た友人も、僕と違う感想を話していた。難しいというより掴みにくい劇であった。

しかし枯れ葉の散った街を歩きながら頭のなかで劇を再構築して、再分析すると、骨格は単純なようである。主題的な構成も難しくはない。劇的な構成はきれいに整頓されている。表現に不条理演劇特有の突拍子の無さが見えるが、それも「不条理」というより「過剰」であって、その根っこにあるのはリアリズムである。僕は奇抜な装飾を剥がせばこの演劇はリアリズムの演劇であると読んだが、もっともこれもひとつの風の声に過ぎない。僕は友人の不納得の唸りを聞きながら彼に感想を話した。

劇も終盤になると主題が急速に収束し、ハロルド・ピンターの言いたかったことが浮かび上がってくる。しかし僕は劇の中間地点のリアリズムに寂しさを感じ、そちらこそハロルド・ピンター「言いたかったこと」ではないか、と感じた。終わりに明かされる『誰もいない国』というタイトルの意味も、さして大した一点でない。むしろ中間にあったリアリズムに基いた人生の哀しみこそが、僕は深く穿った穴と感じた。それは寂しい空洞である。

しかし友人は説得できず、その後彼と別れて風に吹かれながら帰った。途中、ラーメンを食って帰った。乗りたかったバスはすでに出ていて乗れなかった。普段バスで通る道を、僕はのんびり歩きながら帰った。

 

 

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