園子温、『部屋 The Room』

 

園子温の『部屋 The Room』という、彼の初期の映画を観ていました。
少し前に観たドキュメンタリーのなかで彼がこの作品について触れていて、かなりマニアックな、――俗な言い方をすれば「ぶっとんだ」作品であるというので期待して観たのですが、結局は彼の後期の作品と同様に僕には物足らない映画であった。一貫して、僕は園子温はかなりのところまで芸術に対してははったりのひとであると思う。

映像はところどころかなり美的であるが、映画の中心に肝心の「柱」が存在しない。この「柱」が「何」であるか、――それは主題であるか、感性であるか、この地上に生きるうえでひとが常に感ずる苦悩であるか、それともそれらすべてであるか。この「何」が「何」であるか、僕はずばり言い切れないがこの映画の構造の中心になにもないことははっきりしている。園子温はこのとき、撮りたいものなどなにもなくこの映画を撮りだしたのではないかとさえ思う。

比較として、これより遥かにずっと名画と僕が思うのはジム・ジャームッシュの『パーマネントバケーション』である。あちらは、園子温のこの映画と違い、映画の中心に鮮明に「柱」がある。あちらの「柱」は倦怠に押しつぶされそうな若者の苦悩である。この苦悩は、『パーマネント・バケーション』では、ふわふわと浮ついた、痴呆性に彩られたやわらかななリズムのなか、息苦しい重さとして表現されている。それに対し園子温のこの映画は、主人公の想いは別段なにも表現されていない。思わせぶりな意味深さと、突拍子もない急速な演出はあるものの、それらに惑わされなければさしてなにも表現していない映画である。彼の過激さに倣って僕も過激に彼を批評すれば、ひょっとすると、園子温はこの映画同様、その精神の中心にこの手の「欠落」を抱え、この「空洞」に怯えるからこそ、それを誤魔化そうと常に突拍子もないひとでいたがるのではないか? ――そう疑いたくなるほどこの映画は中心にぽっかりと欠落を抱えた作品である。

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