李龍徳『死にたくなったら電話して』

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李龍徳の『死にたくなったら電話して』です。

文学界にありがちな帯による過剰な宣伝広告(「現代のドストエフスキーがあらわれた!」)に惹かれて読みましたが、僕は良い作品と思わなかった。文は理性的に書かれており、あくまでも写実的表現だけが徹底されておりこれを僕は芸術とも思わない。アマゾンの評価の中に「テンポが良い」と書かれているがそれも含めて通俗的なエンターテインメントと思う。主題的にも「現実描写」は正確には目指されておらず、とくに前半の大部分は「願望成就」を目的に作られている。前半は、僕の定義ではかんぜんにエンターテインメントに過ぎない。

主題構成もつくられておらず文学的な構成はできていない。作者は「現実の辛さ」を描きたいのであるが、それ自体は描けていてもそれと相反する「希望」が出てこない。ひたすらに「現実とはクソである」と書いて、それきりである。かといって主人公は「現実はクソ」と長い推察のすえに達観したのでもない。物語の筋は「現実はクソ」と言いながら登場人物ふたりで堕落していくだけである。この過程に主題上の必然性がなく、心理上の葛藤がなく、彼らはなにに破れるがゆえに「現実をクソ」と思うのか。――この「破れるもの」こそが人間の眼前に横たわる「壁」でありギルガメシュ叙事詩のころから問題とされている切実なる人間の限界、「現実」である。それが越えられないがゆえに「現実はクソ」とひとは思うのだと僕は思うが、この「限界」がついに出てこない。文学界が真剣にこの小説をドストエフスキーの新しい登場と考えているとは思えないが、そもそもドストエフスキーの皮肉は投げやりな諦めではない。諦めの叫びに似せた、切実なる願いである。シニカルに叫ばれた、一種の希望の想いである。そこにあるのは「壁」の向こうへの執念深い眼差しである。

この小説は「壁」の手前でさほど抵抗もなく諦めている。主題上で揺れていないからである。この作者が「クソ」と思う「現実」は確かに多角的に描写されているが、しかし僕の思う「現実描写」とはこれではない。「現実描写」とは、狂おしい敗北である。越えがたい、人間的限界である。この小説で描かれているのは、せいぜいリアリスティックな「事実」である。それは切実なる敗れでない。倦怠のなかで感じられる、あのまどろっこしい諦めである。

 

 

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